御本尊のお姿が違う?

元々、ご本尊とは化儀の上で、曼荼羅正意になったのであり、
日蓮大聖人様のお姿と御歴代のお姿が違うのは当然なのである。

血脈と法体と、御本尊のお姿が同一でなければならない文証はない。
ではなぜならば、大石寺と京都要法寺は二寺一か寺として成立した。

しかし大石寺の流れと要法寺系(あえてこのような表現をする)では
元々、系統が同一であるから、似て非なる関係であったことは間違いない。

要法寺に残る古文書には、大石寺を守りたい意図の文書が残っている。
また京都要法寺大石寺の関係そのものも、決して悪くはなかった。

大石寺は、非常に公家の力があり、また大石寺法主17代日精師の権力と
力は言うまでもない。その日精師が要法寺との間で権力争いがあった
ように思えてならない。


このことにおいては日精師があらゆる寺を大石寺の末寺にしようとした
古文書も出てきているので、研究発表する予定である。

本尊の在り方で言えば、大石寺にも御影様が檀家宅には存在し、また
顕本法華宗にも、その歴史が多大にある。

京都十五山の背景には一尊四士だけでなく、御影様と曼荼羅本尊を
外すことができない歴史があった。

そのことを踏まえ、大石寺の御影堂は別体三宝を奉っているのであり、
大石寺の素晴らしい勝劣派としての化儀であると判断するほか、ない。

創価学会参入より、曼荼羅一幅をもって本尊と為すという教義が、
成立し、現在に至っている。

どの宗派(勝劣派)を見ても、曼荼羅一幅本尊論など、皆無であり、
歴史や史実から見る場合、僧侶を上から見て、武家公家を下に見る
こと自体が、歴史的史実的な時系列より、矛盾が生じ、論争が起こる
ことは言うまでもない。

そのような背景から古文書がまだまだ研究の中で、発掘されることが
予想され、大石寺の歴史は更に、創価学会などから誹謗中傷されることが
少なくなる要素を大きく含んでいる。

また余談だが、私の研究は、大石寺の布教研究をしており、どの御歴代
上人がどの地域で、どんな布教をなさったのか、私は的を絞り、研究
している。過去の過ちがどうのこうのというのはソースがない(古文書
そのものがない邪難である)

つまり推測などでしかなく、当然ながら書いた本人の文責も問えないほど
の内容でしかない。

しかし古文書からの論証であれば、邪難に値することは反論でき、批判も
相手にできることになるから、大石寺正統門家の信仰を貫くための働きを
御歴代上人がなさっていたことがわかる。

時間はかかるが、ぜひ、研究結果は公にするので、期待してほしい。

 

研究に際しての下調べと資料収集

今回の研究は、石要関連の研究(大石寺要法寺)をテーマに進めています。

私はあくまで、在野研究であり、仕事をしながらの研究ですので、中々、現地に赴いて

現場の資料収集が難しいため、県史、市史の下調べをしたのちに、その県史、市史に掲載されない古文書を探し出し、その古文書にある内容と、論文のきっかけとなった古文書がリンクするという概念を持って、研究を進めています。

 

今回の研究であれば、要法寺の研究や要法寺覚書などを慶應義塾大学リポジトリより

取り寄せし、拝見させていただいており、この辺から、要法寺の成り立ちや、在り方などをみることができます。

 

もっとも大切なことは、藩によって時代の流れや制度が変わり、その影響によって

寺院の在り方も変化していきます。

 

そのことを踏まえ、研究しなければ、なんの意味もなしません。

 

例えば現在、令和になり、昭和の時代をこの令和の時代に話しても、その時代に生きた

人はわかっていても、平成に生まれた人にとって、"昭和ってなんなの?"

 

という意見が来るのは、当然です。

論文を理解し、読んでもらうためには、背景をしっかり書かなければならないと

自負しており、これは承認欲求ではなく、論文の趣旨を理解していただくために

重要な役割と考えております。

 

今後、何本、書くのか、わかりませんが、来年に一本出せればと考えております。

立正大学 仏教研究会にも所属させていただき、資料の収集もしやすくなり、新しい研究がこれからは進化として、出てくるのではないかと考えております。

 

査読においては、決められた先生がおりますので、先生方に査読はお願いしております。

 

また学友には批判反論者をやっていただき、その反論批判にどうお答えするかも、

練習をデモで行っております。

 

あたらしいリフレッシュな時代が公にされることは、学問向上の一途であり、私たち学徒の新しい道であると自負しております。

 

学術論文を書かれた先生方の研究発表に、感謝を⁴、日々、諸師の学説が進化することを切に希望しております。

 

そのために各論文集を下調べするのに非常に時間を要しました。

それは"既に書かれているじゃないか!!!"などの反論批判を避けるために、念入りに

下調べを行いました。

 

学問と研究とは日々、進化していますので、しっかり論文発表された文章はしっかり

読み込む必要があります。

 

研究諸氏の皆様、御健闘をお祈り申し上げます。

 

大心剣山 拝

 

信心の原点(上)を読んで

私は創価学会員であった頃、トランス題目(ひたすら早く唱える題目)を続けて以来、不眠症になってしまった。

当時はわからなかったが、多くの創価学会脱会者と交流し、多くの方々が不眠症うつ病などに悩まされていた。

そんなとき、いったん、題目を辞めてみようと思い、一年ほど、題目を辞め、勤行もやめていた。

その数年後、創価学会勤行要典より、長行が削除されてしまい、全てやる気を失い、他門流へ行くようになった。

色々な題目の唱え方があるものだなぁと思いつつも、どういうわけか、あまり気乗りしなかった。

十年近く、題目を唱えていなかったが、マントラとして再度、チャレンジしてみたが、やはり癖が残っているのか、早い題目になってしまう。

先日、正宗寺院で勧誡式を受け、進呈として"信心の原点"という書籍の上下

を頂戴し、拝読させていただいた中に、題目について非常に興味深く、楽に題目を上げるご教示があったのでご紹介したいと思い、書いておきたいと思います。

 

信心の原点(上)

唱題の姿勢と心構え(14ページより)

唱題の姿勢と心構えについて、第59世日亨上人は、「お題目の唱え方は、

身に油断怠りなきよう、意(こころ)に余念雑念(よねんざつねん)なきように

ありたい。口より出す声は早口であったり粘口(ねばくち)であったりしては

ならぬ。落ち着いてしっかりと尻強(しりづよ)に中音に唱えねばならぬ。

唱える数には定まりがない。多くとも少なくともその人の都合であるが、

身体の方は両手を合わせて指先が鼻の下に向くように、目は確かに御本尊

と吾等(われら)と一体不二(いったいふに)に成るまで励ねばならぬ」

 

このように御指南されています。

 

私の経験で培った創価学会のトランス題目は宗門に違背する題目であり、

多くの会員をおかしくしてしまう題目であることがわかります。

 

三悪道四悪趣の輪廻を繰り返し、身も心も、全て破壊されてしまうのです。

 

創価学会の題目で苦しい、つらい、眠れない、などの症状がある場合、直ちに題目を中止し、創価学会から一日も早く離れ、しっかりとした日蓮正宗の寺院に所属すること

です。

 

多くの方々が日蓮正宗の信仰へ帰依し、苦しみから解放された方が多くいらっしゃいますので、まずは気軽な話しから、たわいのない話をお声がけください。

 

創価学会は一度、入会し、脱会すると二度目の入会はありませんが、日蓮正宗では

何度でもやり直しが効きます。

 

また、御本尊様を必ず受持しなければならないという規定もございません。

ご家庭の事情をしっかりと考慮してくださいます。

題目には功徳がありますが、魔の功徳と真の功徳は雲泥の差です。

しっかりとした題目を実践し、功徳を積む信仰を心がけてください。

 

 

一道清浄と一月三星・心果清浄の事

一道清浄

 一道とは衆生を悟りへおもむかせる唯一の真実の法理。
清浄とは浄らかで煩悩の穢れをはなれているとの意で、
あらゆるものの中に普遍的に存在している清浄無垢の仏性をさす。
したがって一道清浄とはあらゆるものの中に清浄な生命の仏性がある
という十界互具・一念三千の意義を含めた実相を指すのではないか。

 

 

一月三星・心果清浄
天台大師のいずれの文か明らかでない。
一月三星とは「心」の字の下の一画を一月に、
そして上の三点を三星に配したもので「心」の字形を示している。
一月は一身、三星三身に配せられ、一身即三身三身即一身の義
をあらわすと考えられる。心果清浄とは、久遠の本果に住せられている
無作三身如来の境地が月と星の輝くように澄みわたって清浄であるとの意。

創価学会員に思うこと

私は創価学会を辞めて、12年の歳月が経ちました。
学会員の中にも、自らが創価学会員であることを隠し、
仕事をされている方々が多くいます。

その中で特に目立つのが福祉関連の業務に携わる方々が多いという
統計もあります。

私はそのような方々を学会員でなく、一人の人として見ており、
理由を述べれば、自らを学会員であることを隠しているからです。

そんな状況を私は、良いと思う反面もあれば、仕事に対する姿勢から
"やっぱり学会員だな"と思う反面もあります。

公明党が推進した介護事業に関して、不満はあるものの、大きな取り組み
をしたと思うのも、正直な思いです。

インターネットで見る創価学会員の姿は、私が現場で目にする学会員の姿とは
全く別人でした。

創価学会批判をすれば、未活であること=それは学会員であることには変わり
ないのに、学会を未活の人が批判し、他者が創価学会を批判すると、反論してくる
などはカルトマインドコントロールの域を脱していないことが容易に分かります。


多くの学会員とリアルで接してきた私にとって、かけがいのないことは障碍者に対する
配慮が福祉関連の学会員の方々には多く、事業の枠を超え、寄り添う思いが強く感じ
取れることです。すべてと申し上げませんが、私がかかわった創価学会員の方々は
そうでした。私は創価学会が嫌いだと公に言い続けているにも関わらずです。

受容の精神、それは受け止める精神の構築がはっきりとあるということでした。

私が求める創価学会の姿として切望するのは、創価学会教義に捕らわれず、慈善事業
としての創価学会を目指す方向はないのか、非常に期待をしているところです。

多くの新興宗教と政治のかかわりが、大きく取沙汰されている中、社会から需要される
要因として創価学会は今後、大きな福祉事業に関する展開をするべきだと考えます。

まとめますと、ネットに内在する創価学会員とリアルにいる創価学会員では雲泥の差
ほども、人間性、受容性、寛容性、忍耐性が異なるということです。

 

日興「申状」

日蓮聖人ノ弟子日興重ネテ言上ス。/ 欲ス早ク対治シテ爾前迹門ノ謗法ヲ被ルレ立テ法華本門ノ正法ヲ者、可キ為ル天下泰平・国土安穏事ヲ。/ 副ヘ進ス 先師之申状等。一巻 立正安国論〈文応元年ノ勘文〉。一通 文永五年ノ申状。一通 同八年ノ申状。一巻 所造ノ書籍等。/ 右、度度具サニ言上シ畢ヌ。抑モ対治シテ謗法ヲ弘通スル正法ヲ者、治国ノ秘術ニシテ聖代ノ佳例也。所謂漢土ニハ則チ隋ノ皇帝・天台大師破シテ十師ノ邪義ヲ治メ乱国ヲ、倭国ニハ亦桓武天皇伝教大師止メテ六宗之謗法ヲ退ク異賊ヲ。凡ソ付ケ内ニ付ケ外ニ、捨テテ悪ヲ持ツ善ヲ者如来之金言ニシテ明王之善政也。爰ニ近代天地之災難・国土之衰乱逐テ年ヲ強盛也。然レ者当世御帰依ノ仏法ハ為世ノ為人ノ無益ナル事誰カ可ケン論ス之ヲ哉。凡ソ伝教大師ノ像法所弘ノ法華ハ迹門也。日蓮聖人ノ末法弘通之法華ハ本門也。是レ則チ如来付属之次第也。大師ノ解釈明証也。為仏法ノ為ニ王法ノ早ク被尋ネ聞コシ食サ急キ可キ有ル御沙汰者歟。所詮入テ末法ニ不ル建テ法華本門ヲ之間、国土ノ災難ハ随テ日ニ増長シ、自他ノ叛逆ハ逐テ年ヲ蜂起ス。

 

元徳二年三月

宿屋入道許御状

其の後書絶えて申さず不審極り無く候。抑、去ぬる正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥刻の大地震、日蓮諸経を引きて之れを勘へたるに、念仏宗禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作(な)して起こす所の災ひなり。若し此れを対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通之れを撰し、正元二年〈庚申〉七月十六日、御辺に付け奉りて、故最明寺入道殿へ之れを進覧す。其の後九箇年を経て、今年大蒙古国の牒状之れ有る由風聞す等云云。経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎を調伏すべきの人に当たり、兼ねて之れを知り論文に之れを勘ふ。君の為、国の為、神の為、仏の為内奏を経らるべきか。委細の旨は見参を遂げて申すべく候。恐々謹言。 文永五年八月二十一日         日蓮花押 宿屋左衛門入道殿