人生、客人として処すべし
短気をおこさず信心を穏やかにもち、
つねに倹約に心がけて金の備えをすべし。
倹約の仕方としては、不自由を忍べばよいのである。
この世に客として招かれてきたのだと思えば、なんでも
平気だ。朝夕の食事がまずくても、うまいといって
食べるべし。客の身なので好き嫌いなどいえない。
そうして一日一日のつとめを果たし、最後には子孫や
兄弟にねんごろに挨拶して、娑婆にいとまごいすればよいのだ。
(伊達政宗)
武士道的一日一言
新戸渡 稲造 著
9月29日
月とむら雲
自分を害する者がいても寛大に赦してやること。自分が相手の立場ならもっと
こっぴどくやっつけるだろうなどと空想すれば、相手の力不足がかえって憐れに
見えてくる。こちらは平気なのに、相手は自らまねいて手ひどい傷を負っている
のだ。むら雲が月の光をさえぎろうとして果たせないと、月はそんな非力なむら
雲のことを憐れに思うことだろう。
大空を照り行く月し清ければ
くもかくせども光り消なくに
敬 信尼
狭くとも住居は足りぬ広くせよ
おのが心を天土のごと
武士道的一日一言
新渡戸 稲造 著
天を相手にせよ
明治十年(1877年)の今日、西郷隆盛(南洲)が城山で戦死した。以下、
西郷の言葉である。
(道)は天地ありのままの指針であり、人はそれに沿って歩むべきもの。
ゆえに、結局は天を敬うことが人生の目的。天は自分もまったく差別なく
愛するので、自分を愛する心で人を愛さねばならない。
人ではなく、天を相手にせよ。天に対して自分のありたけを尽くせ。
他人をとがめず、自分のまことが足りないのではないかと自問せよ。
※江戸時代後期から明治時代初期にかけての武士、軍人、政治家
(1828-77)薩摩藩の下級武士の家に生まれたが、明治維新の立役者の
一人となった。後に内乱を起こして敗北、自害した。
9月24日
武士道的一日一言
新渡戸 稲造
武士道的一日一言 9月23日
人に誉められたら、一歩退いて、「自分はそれに
値するだろうか」と胸に問え。心に恥じるところがあれば、
褒め言葉に値する自分になるよう努めるがよい。人に
けなされたら、一歩退いて、「自分はそれに
値するだろうか」と胸に問え。自分の中にけなされる理由が
存在しなければ、けなした者の不明を憐れみ、いつか目が
開くように祈ってやればよい。
今日ほめて明日わるく云ふ人の口
泣くも笑ふもうその世の中
(一休)
たれこめて己にただせ世の中の
ほめる言葉もそしる声をも
9月23日
武士道的一日一言
新渡戸稲造 著
灌頂と洗礼
真言密教の信徒になるには一つの儀式が必要です。
その一つに"灌頂"が挙げられます。
初心者は宇宙を支配する大日如来と縁を結ぶ結縁灌頂を受けます。
所の仏と縁を結ぶとされていて、その場で頭の上に知恵の水を
灌いでもらう儀式です。
他方、『新約聖書』には紀元後、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた
洗礼者ヨハネがいました。イエスの信者になるには、イエス.キリスト
を「真の神、真の救い主」と信仰告白して、洗礼を受ける必要がありました。
そして信仰生活が始まると聖書は教えています。多くのキリスト教会は
それを教えています。
灌頂が頭に水を灌ぐのに対し、洗礼は父.子.聖霊の名でバプテスマ(洗礼)を
川か屋内で、頭か額か全身かに授けます。ローマ教会や東方教会では洗礼名
がつけられますが、これも似ています。