光陰矢のごとし

光陰矢のごとし。昨日まで青々としていた田も、今日は
すっかり色が変わり、山の木の葉も風に乱れて、余はまさに
秋の風情たけなわ。それにつけても、世のありさまはさておき、

私のせまい交際範囲の中でも、変化を数え上げればけっして
少なくない。

昨日見し人はと問へば今日はなし
明日また我れも人に問はれん

武士道的一日一言
新戸渡 稲造 著
9月30日

人生、客人として処すべし

短気をおこさず信心を穏やかにもち、
つねに倹約に心がけて金の備えをすべし。
倹約の仕方としては、不自由を忍べばよいのである。
この世に客として招かれてきたのだと思えば、なんでも
平気だ。朝夕の食事がまずくても、うまいといって
食べるべし。客の身なので好き嫌いなどいえない。
そうして一日一日のつとめを果たし、最後には子孫や
兄弟にねんごろに挨拶して、娑婆にいとまごいすればよいのだ。

(伊達政宗)
武士道的一日一言
新戸渡 稲造 著
9月29日

月とむら雲

自分を害する者がいても寛大に赦してやること。自分が相手の立場ならもっと
こっぴどくやっつけるだろうなどと空想すれば、相手の力不足がかえって憐れに
見えてくる。こちらは平気なのに、相手は自らまねいて手ひどい傷を負っている
のだ。むら雲が月の光をさえぎろうとして果たせないと、月はそんな非力なむら
雲のことを憐れに思うことだろう。
大空を照り行く月し清ければ
くもかくせども光り消なくに
敬 信尼

狭くとも住居は足りぬ広くせよ
おのが心を天土のごと

武士道的一日一言
新渡戸 稲造 著

 

種まき

努力が実るかどうかは天にまかせて、自分はただひたすらその日
その日の勤めを果たせばよい。思い通りの成果でなくても、
失敗ではない。種をうえて一月で成長するものも、百年後に芽を
出すものもある。人生ははてしない種まき。発芽も収穫も天の意のまま。

明治天皇御製
むらぎも(※)の心の限り
尽くしてん
わが思ふこと成るも成らずも
五臓六腑

武士道的一日一言
新渡戸 稲造 著
9月25日

天を相手にせよ

明治十年(1877年)の今日、西郷隆盛(南洲)が城山で戦死した。以下、
西郷の言葉である。

(道)は天地ありのままの指針であり、人はそれに沿って歩むべきもの。
ゆえに、結局は天を敬うことが人生の目的。天は自分もまったく差別なく
愛するので、自分を愛する心で人を愛さねばならない。

人ではなく、天を相手にせよ。天に対して自分のありたけを尽くせ。
他人をとがめず、自分のまことが足りないのではないかと自問せよ。

※江戸時代後期から明治時代初期にかけての武士、軍人、政治家
(1828-77)薩摩藩の下級武士の家に生まれたが、明治維新の立役者の
一人となった。後に内乱を起こして敗北、自害した。

9月24日
武士道的一日一言
新渡戸 稲造 

武士道的一日一言 9月23日

人に誉められたら、一歩退いて、「自分はそれに
値するだろうか」と胸に問え。心に恥じるところがあれば、
褒め言葉に値する自分になるよう努めるがよい。人に
けなされたら、一歩退いて、「自分はそれに
値するだろうか」と胸に問え。自分の中にけなされる理由が
存在しなければ、けなした者の不明を憐れみ、いつか目が
開くように祈ってやればよい。

今日ほめて明日わるく云ふ人の口

泣くも笑ふもうその世の中
(一休)
たれこめて己にただせ世の中の
ほめる言葉もそしる声をも

9月23日
武士道的一日一言
新渡戸稲造

灌頂と洗礼

真言密教の信徒になるには一つの儀式が必要です。

その一つに"灌頂"が挙げられます。

初心者は宇宙を支配する大日如来と縁を結ぶ結縁灌頂を受けます。

目隠しして胎蔵界曼荼羅.金剛界曼荼羅上に華を投じて、落ちた

所の仏と縁を結ぶとされていて、その場で頭の上に知恵の水を

灌いでもらう儀式です。

 

他方、『新約聖書』には紀元後、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた

洗礼者ヨハネがいました。イエスの信者になるには、イエス.キリスト

を「真の神、真の救い主」と信仰告白して、洗礼を受ける必要がありました。

 

そして信仰生活が始まると聖書は教えています。多くのキリスト教会は

それを教えています。

 

灌頂が頭に水を灌ぐのに対し、洗礼は父.子.聖霊の名でバプテスマ(洗礼)を

川か屋内で、頭か額か全身かに授けます。ローマ教会や東方教会では洗礼名

がつけられますが、これも似ています。